解離とは「感じる」のをやめ自己意識を切り離すこと 慢性的なトラウマを経験すると、人は「感じることをやめる」「ここにいなくなる」ことで対処する。それは、自分の身体を感じ、自己意識を生成する島や帯状回の活動のスイッチをみずから切る防衛反応であり、解離と呼ばれる。
わたしたちの社会では「考える」能力が重視され、「感じる」能力はひどく軽視されています。
学校では、あらゆる授業において、客観的な知識によって「考える」能力の鍛錬が目的とされています。自然の草花を見て、自分の感性で主観的に「感じる」能力を鍛えるような授業はほとんどありません。
テストでは、主観的な答えを書かないよう指導されます。客観的な知識のみが正しいものだと教え込まれます。
それどころか、学校では、主観的な感覚は抑制するように、絶え間なくプレッシャーをかけられます。
たとえば授業中は立ち上がりたくても座っていなければならず、あくびやくしゃみ、尿意などは我慢するよう求められます。これはすべて生理的衝動より理性に重きを置く文化の現れです。
このような教育は、この記事で考えた脳科学的な研究からすると、「身体が伝えてくるフィードバックを無視する」ことです。
基本的に解離とは、慢性的なトラウマ体験の結果、島や帯状回が強く抑制された状態、すなわち 危機的状況に追い込まれ、逃げ場がないと、わたしたちは身体と脳をつなぐ島や帯状回のスイッチを切って自己防衛のあらわれです。
そして、それは、現代では重大な危機的状況がなくとも、現代社会の文化と教育のもとで育った人はみな、軽い解離を抱えて育つことになります。学校や職場のルールに合わせるために、自分の感覚の「スイッチを切」らねばならないのです。
わたしたちの社会や教育制度は、ずっと「認知」また「考える」ことを重視しすぎ、長らく「感じる」ことを軽視してきたので、島や帯状回を抑制する傾向があり、多かれ少なかれ解離を引き起こしています。
感じることを抜きにした理性的な思考は的外れになることがわかっています。まず感じる能力が育ってこそ、より的確に方向づけされた理性的な判断ができるようになります。
しかし現代社会の教育は、その土台となる「感じる」力を育てないまま認知を鍛えようとするので、結果として能力の偏りを生んでいます。
このような社会のひずみから最も影響を受けているのは、もちろん「感じる」能力に特化した感受性の高いの子どもたちでしょう。もともと「感じる」能力が高いのに、その才能を伸ばすどころかひたすら抑制するように強いられて育つからです。
現代社会において、感受性の強い子どもが不登校や慢性疲労症候群になりやすいとすれば、それは社会が、主観的に「感じる」能力を軽視し、客観的に「考える」能力ばかりを伸ばそうとやっきになっているひずみの現れであるといえます。
わたしたちは、このような偏った社会で生まれ育ったからこそ、「考える」認知の力だけではなく、「感じる」感性の力の重要性を思い起こすことが大切です。
こうした脳についての神経科学の研究は、現代社会に生きるわたしたちにとって希薄になってしまった、自分の身体をより深く感じる能力、そして、今ここに存在している自分、という自己意識を生き生きと感じる能力の尊さを、わたしたちに思い起こさせてくれます。
わたしたちは、「考える」人間である以前に、「感じる」動物であり、その生物学的な本能を呼び覚ますことこそが、今この瞬間を生き生きと経験する秘訣なのです。
セラピーの目的は自分の身体を感じる能力の回復
トラウマの解離状態に陥った人のためのセラピーでは、安全な環境で徐々に身体の内的感覚を感じられるよう助けることなのです。
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